絶対に稼げる銀座高級クラブ

今すぐ体入!銀座クラブおすすめランキング

詳細はこちら

【PR】

クラブ綾瀬 - \ 体入時給8,000円以上可 /-

club tete - \ 2023年新規OPENのクラブ /-

club nana - \ 長年に渡り圧倒的な集客力 / -

クラブ coco - \ VIP層が連日訪れる間違いなしの今一押しのクラブ /-

銀座の由来~江戸時代の銀座役所~

銀座の由来~江戸時代の銀座役所~

銀座とは

銀座とは幕府の御用達町人によって組織された江戸時代の銀貨鋳造所で、
銀遣いが行われていた関西に幕府の統一銀貨を供給することを目的として慶長6(1601)年に伏見に最初に開設された。

この伏見の銀座は慶長13(1608)年に京都に移転されている。

京都のほか、慶長11(1606)年には家康の隠居地である駿府、
慶長13(1608)年頃には大坂にも銀座が設立されたようであるが、
前者は慶長17(1612)年に江戸に移転しており、また、後者は銀貨の鋳造を目的としたのではなく、
京都銀座で必要な銀を生野、石見などの銀山から買い集め、京都に送ることを役目としていたと思われる。

町人による請負方式

銀座は初期においては老中の、ついで留守居役の、最終的には勘定奉行の支配を受けたが、
金座同様幕府の官営ではなく町人による請負方式であった。

銀座は銀貨の鋳造に関し幕府の特許を得て事業の運営にあたっていた銀座人(事務所を銀座役所という)と

銀貨の鋳造、極印打ちおよび上納銀の包封を行っていた大黒常是(だいこくじょうぜ)

(作業所を銀吹所という)から構成されていた。

※ 「銀座人」は、銀座の職員全体をさし、「座人」は銀座人のなかで平役以上の高職位に就いた者をさす。

 

慶長19(1614)年から元和の頃にかけては長崎にも銀座が開設された

長崎でも銀貨の鋳造は行われておらず、異国船が持ち帰る代銀を改め、
鋳貨材料となる灰吹銀が持ち出されないように監視していた。

 

貨幣としての銀貨は江戸と京都の二カ所の銀座でのみ鋳造されていた

銀座は幕府の貨幣鋳造機関としてその改鋳政策に協力し、

初期においては幕府から銀貨の鋳造業務に関するいっさいの権限を与えられ、

銀座人、銀吹人等は種々の特典や待遇を得ていた。

 

幕府は中央政権確立という政治的大方針に沿った貨幣統一の支柱として

銀座を活用することとしており、銀貨の鋳造を増大するという

銀座の事業姿勢には全面的に協力した。

 

しかしやがて幕府は銀座を貨幣統一に対する協力者ではなく、

改鋳によって出目を得るためのいわば財政収入に対する協力者としてとらえ始めるようになるが、

一方銀座は、公的事業の役割を忘れ、独自の利潤追求に走っていった。

この結果、幕府は銀座に対する支配を強化し、次第に銀座の運営に干渉するようになった。

銀吹き分けの量を少なく申告するという銀座の不正事件の発生

寛文3、4(1663、1664)年に、

銀吹き分けの量を少なく申告するという銀座の不正事件の発生をきっかけに、

以後銀座において無役の場合は座分配当を認めない、

銀座の内部組織に関する定書を提出させる、

銀座年寄の選任について監視する、

座分配当状況を提出させる

などの形で、幕府は銀座の統制を強めていった。

さらに、元禄の改鋳(1695年)の際には、鋳造作業は江戸一カ所に集中され、

勘定奉行の直接監督下に置かれることになった。

 

寛政12(1800)年、幕府は銀座人を一新するとともに銀座における貨幣の鋳造を江戸に集中し、
銀座を幕府直営の事業とする大改革を実施した。

この結果銀座は御用達町人による銀座役所から公儀の銀座役所となった。

銀座は京橋から蠣殻町へ移転させられた

同年11月から行われた明和南鐐二朱銀(それまで秤量貨幣であった銀貨が計数貨幣へと変化したもの)の

増鋳は勘定方役人が付き切りで行われ、また、翌年には江戸の銀座は京橋から蠣殻町へ移転させられた。

さらにこれ以後銀座の貨幣鋳造は江戸のみに限られ、
京都、大坂の銀座は新旧貨幣の引替え、潰し銀等の買い上げ、丁銀・豆板銀の包封などを業務とし、長崎の銀座は廃止された。

 

このような組織の変化ならびに幕府による銀座管理の変化は、

銀貨が明和期(1764~1772)に入って新しい局面を迎えたことと無関係ではないだろう。

すなわち、明和2(1765)年の明和五匁銀に始まり、

それに続く明和9(1772)年の明和南鐐二朱銀という計数貨幣の発行が開始されたことは銀貨の大きな変化であった。

明和南鐐二朱銀は文字どおり金貨の単位が与えられており、
金貨の補助貨幣として位置づけられるものであった。

このため「金代り通用の銀」として他貨幣との交換その他まったく金貨と同様に扱われた

これは、一定銀量をその実体価値以上に通用させる一種の出目獲得といえる。

参考文献
大貫摩里『江戸時代の貨幣鋳造機関(金座、銀座、銭座)の組織と役割─金座を中心として』日本銀行金融研究所/金融研究/1999年

https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk18-4-1.pdf

タイトルとURLをコピーしました